60話

 ペンを書き殴る音だけが木霊する。
 四方八方囲まれた書類の山の中で、既に指先の感覚も無くなる中、必死にペンを走らせていると不意に書類の隙間からにゅっと手が伸びてきてティーカップが差し出される。

「!」
「リディア様、よかったらお茶をどうぞ」
「ありがとう」
「いえ、こちらこそいつもお手伝い下さりすごく感謝しています、さ、カップをお取りください、こちらでは見えませんので落としてしまいそうです」
「あ、うん」

 書類の隙間から伸ばされプルプル震える指先からカップを受け取る。

「それじゃ、お互い頑張りましょう」

 あっという間にその場から去っていく仕官。
 書類で顔は見えないが、足音で去っていったことだけ悟る。
 ここに通い出して暫く経つ。
 もう逃げるのも体力が消耗するのでやめた。
 素直にここに通う様になってからそれなりに日数が経っていた。
 その間毎日授業終了後から夜までずっとこの執務室にいるわけだが、皆本当に休む間もなく働き詰めだ。
 そんな中で一緒に働いていると、何となく同じ目的に向かって頑張っているという一体感のようなものが生まれてくる。
 最近ではこうしてお茶を提供してくれたりするようになった。
 こんなことされると嫌々だった仕事も、何とか少しでも頑張ってやりたくなるのは不思議なものだと思いながらイザークより遥かに劣るお茶を美味しく頂く。

(心のこもったお茶は、薄くても美味しいわね…)

「さてと、残りを一気にやってしまおう」

 それから日もどっぷりくれた頃やっと書類から顔をひょこっと出す。

「じゃ、終わったので失礼するわ」
「ええ、明日もよろしくお願いします」
「‥‥」

 返事することもなくドアに向かうと、あちこちから「お疲れ様」という声が掛かった。

(懐かしい‥‥)

 前世では普通に会社員としてこうして働いていた。
 結構忙しい会社だったからいつもこんな感じだったなと思い出す。
 一人暮らしだったため、家賃に光熱費、それに趣味の乙女ゲームや飲み代を稼ぐために、大学出た後それなりに給料もらえる場所に就職した。
 それなりに給料もらえる会社はやはり忙しい。
 とはいえ、一人暮らしをやめるつもりも趣味の乙女ゲームや飲みをやめるつもりもなかったから、会社の犬となって働いていた当時を思い出す。
 会社に特別な思い入れがあるわけでもない。別に会社の同僚と皆仲良しって訳でもなく、皆結構、仕事は仕事として割り切っていたところがあり付き合いが深いわけでもなかった。
 だけど忙しいと連帯感というものが生まれるあの感覚は嫌いではなかったなと思い返す。 

(こういうのも悪くないわね)

「‥お疲れ様」

 そう言うと部屋を後にした。
 その一言に執務室内の男ども全員が心を射抜かれたなどリディアは知る由もなかった。
 姿を消したリディアを見て呆然と佇む士官たち。

「やっぱ聖女候補生って凄いですね」
「たった一言で癒されます~~~」

 もう耳にタコかもしれないが、リディアは見た目儚き美女だ。
 たった一言「お疲れ様」とほほ笑まれただけで、むさ苦しい男ばかりの忙しさにボロボロの士官たちには女神のほほ笑みに見えた。

「いやぁ、リディア様が来てくださるようになって本当に良かったですね、サディアス様」
「見てください、今日もちゃんと最後まで終わらせて、ちゃんと書類も部類分けもされていて、本当に助かります」
「しかもこれだけの仕事をこんな速さで!お陰で我々も寝る時間ができました!」
「いつもなら不眠不休で大変だというのに…、聖女様なのに我々に手を貸して下さる、リディア様は本当に素晴らしい方ですね!」

 口々に絶賛する士官たち。
 いつもなら風呂も入らず食事も碌にとれず不眠不休の状態のはずだが、士官たちが言う様にリディアのあのズバ抜けた仕事の速さで、休憩や食事、寝る時間までもできている。
 そのため皆体力が残り効率も落ちずに保てているお陰で、無茶振りしてきたアナベルの開くパーティも無事に開けそうだという目途が立ってきた。
 これに関しては本当に助かったと、サディアスは安堵の息を吐く。

「さぁ、まだ終わりじゃありません、仕事にさっさと戻りなさい」
「はいっっ」

 サディアスの言葉でまた執務室が忙しく動き出した。

 最近はリディアは自ら執務室にやってくるようになった。
 お陰で施設に足を運ぶ必要もなくなりリディアとの時間の無駄ともいえる鬼ごっこもする必要もなくなった。

(久しぶりですね、こちらに足を延ばすのも…)

 久しぶりに聖女施設に足を踏み入れる。
 本来ならば今も執務室から一歩たりとも出られない状況だっただろうがリディアの働きぶりのお陰でサディアス自身が動く時間も出来た。
 最初は猫の手も借りたい状況に全く期待もせず1枚でも書類を処理できればと聖女程度でもできて見せても問題ない簡単な計算書類を渡してやらせたらあっという間に解いて見せた。それどころか、桁数が増えようが、執務担当の仕官でも難解レベルの計算も、何やら不思議な計算法を使ってあっという間に解いていってしまった。

(まさしく瓢箪から駒ですね…)

 お陰でついつい敵かもしれないのに忙しさに人材不足も相まって優秀人材という誘惑に負けて使いまくってしまった。

(まぁお陰でこうして出歩くことも出来るのですが…それに手は打ってありますし問題ないでしょう)

 施設内に変わりがないか辺りを見渡しながら歩く。
 すると身に覚えのある人物が教室内を隠れるようにして覗き込んでいた。
 何をしているのかとそのガタイの大きな人物、キャサドラを見る。
 すぐにサディアスに気づくとキャサドラが人差し指を立て待てと言う様に手を翳す。
 何が起こっているかと教室内を見るとリディアが女生徒たちに囲まれていた。

(やれやれ、また揉め事ですか…まったく)

 呆れたようにため息をつき、その様子を見守るためキャサドラの隣に身を潜めた。

「なかなかにマズイわよ」

 キャサドラの言葉に眉間に皺を寄せる。

「一体何事です?」
「ディアのとこに嬢ちゃんが行っているとの情報をレティシアが得たみたいでね」
「!」
「どうやら周りにそれとなく吹聴したみたいなの」
「やれやれ…、上手く他の者が目に付かないように拉致していたつもりでしたが…」
「ええ、皆知らなかったみたいよ、だけど城のメイドが噂していたとか」
「‥‥なるほど」

 眉間を手で押さえる。
 仕官達には口止めしていたし、四方八方書類の山で見えなくしていたが、部屋に来たメイドが何かのきっかけで気づかれてしまったか、仕官が仲いいメイドに口を滑らせたか大方その辺だろう。

「もう少し警戒をしていた方が良かったですね…」

(様子見するつもりが、要らぬ噂が立ってしまうとは…)

 リディアに仕事させることで、どこが動くかを見ていた。
 書類には幾つか偽の大事な書類を紛れ込ませていたのだ。
 5日も行方不明だったリディアがどこかと通じている線はサディアスはまだ疑っていた。
 なかなか他に動きがない中、先にレティシアの方にリディアがこちらに居る事がバレてしまった。
 厄介なことになってしまったとため息を零す。

「聡明な嬢ちゃんに賭けるしかないわね、ジーク殿下にふりかからなければいいけれど…」

 こうなってはこちらも下手に動くのはまずい。
 レティシアはアナベルに継ぐ手管の持ち主だ。

(しかし…)

「‥‥この状況…、イザークは諦める必要が出来かねないわ…」
「そうでした、…ああ、いたいた」

 辺りを見渡し、同じように中の様子を伺っているイザークを見つける。
 
「ディア、イザークをどうする気?」
「もしもの時の切り札は必要でしょう」
「本気?リディアはイザークを大切に思っているのよ?」
「それがどうかしましたか?」
「!‥‥そうだったわ、あんたってそういう奴よね」

 キャサドラが冷たい眼差しでサディアスを見る。

「ドラこそ、何か勘違いしていませんか?我々が守るのはジーク様です、変な情に流されてジーク様の身に危険が及ぶなど以ての外、自分の役割をお忘れなきよう」
「‥‥あんたいつか自滅するわよ?人の情を甘く見ない方がいいわ」
「逆ですよ、情によって身を滅ぼすことなどあってはならない」
「‥‥そういうとこ、嫌いだわ」
「あなたの慕う団長も同じようなものでしょう」
「‥‥それもそうね、ホント英雄のような存在は厄介と言うか…一番彼にはしたくないタイプね」
「そろそろ行きます」

 サディアスがスッと姿を消すと、イザークへと近づいた。